2020年3月9日月曜日

訪問介護を説明せよ


訪問介護のことを知りたい、興味があるので話を聞きたいというご連絡が何件かつづいて、わたしたちも知りたい・興味があるという方の話を聞きたいと思い、お会いすることがこのところ続いていた。

でも、訪問介護のことや日々のことを言葉にして説明するのがむずかしい。何回話しても、ぜんぜん言葉が現実を捉えていないような気がして、家に帰ると落ち込んでしまったりする。

何に落ち込んでいるのかと考えてみる。

あの人だったらもっと上手に説明できるんだろうな、と能力のある人と比較して落ち込む。
思ったような反応を得られないと、あれ?伝わらなかった?!と落ち込む。魅力を伝えられなくてごめんなさいという気持ちになる。(訪問介護さん、みたいなものに対して)
自分自身おもしろいなと思って仕事をしているのだけど、何を、どの辺を話したらそれが伝わるのかがよくわからない。


この情勢下で、夜に開催される会議や研修が中止になることが続き、少し時間ができたので、読みたいと思っていた本を何冊か開くことができた。
本を読むのが好きで、とても好きで、でも本を読むのには心や体の準備が必要だったんだなと思った。読めない時、というのが確かにある。物語だったら読めるという時もあるし、学術書が読めるときもある。読みながら考えられるときもあるし、書き手の方の癖のようなものを追ってしまう時もある。

それで思う。みなさん言葉にするのが上手だな~と。
(この表現自体、小学生みたいだ…いや小学生でももっと上手に気持ちを言えるなぁ)

言葉は、箸みたいな感じがする。
お鍋をして、しめにうどんを入れて、あーごちそうさま!って食べ終わる。お箸が上手な人は、汁の中に泳いでいる野菜や魚の欠片や短くなったうどんもつまんで、食べて味わえる。それをみて、わたしは「それが入ってたの、知ってる。」「よく取れるね」と思うんだけど、あるのを知っているのと、それをつまみあげることができて、しかも味わうことができるというのは全く別物だと思う。お玉で汁ごとすくって飲んでしまっては、違うんだなぁ。

言葉にする練習の一つが、きっと本を読んでたくさんの表現に触れることなんだと思う。
訪問介護を知ってもらうためには、もっと本を読むべきだということになる。
本を読むために、心の余裕を作るために、仕事をしなくていい、ということにはならない。


訪問して、利用者さんから元気をもらうということがある。元気づけてもらうのではなくて、何となく元気になってしまう、こちらが。そういうことがある。なんでだろうね、あるよね~みたいな話になる。

「元気を吸い取ってしまってるんじゃないか」という人もいる。
わたしが最近思うのは、照り返しじゃないかということ。(こちらがケアするしないにかかわらず)相手の命が・時間が脈打っているような時間に立ち会えたときに、その光を浴びているんじゃないかと思う。
やっぱり生活は「生命の活性化」なのかな。